2011年10月16日日曜日

ジョブズ氏の訃報を聞いて

先日105日,スティーブ・ジョブズ氏が亡くなりました。56歳の若さでした。ジョブズは言わずと知れたアップル社の創業者で,コンピュータのあり方を根本から変えた人です。現代を生きる私たちからすれば,世界そのものを変えた人でもありました。さまざまな人物像が飛び交う「奇人」としても有名ですが,ともかくも彼が世界にもたらした様々な意匠は,トマス・エジソンの発明品にも比肩すると言っても過言ではないでしょう。

本校では,9月半ばから3回にわたって,ジョブズの有名なスピーチを読む会を実施しました。アメリカ西海岸の有名校スタンフォード大学の学位授与式でのスピーチです。ちょうど第2回目と3回目の会の間に,ジョブズは亡くなりました。第3回目は追悼を兼ねて,彼のスピーチ映像をみなで見ました。

 さて,スピーチの最後に,彼の生き方を表現したある言葉があります。それは,“Stay hungry, stay foolish.”という短い言葉です。なぜかよくわかりませんが,この言葉だけが独り歩きするくらい有名になりました。「貪欲であれ,愚かであれ」と訳されていることが多いようです。しかし,”be hungry”ではなく,”stay”と言っていますから,「ずっとハングリーでいなさい」という方が正確です。また,”fool”ではなく”foolish”ですので,「愚か者」ではなく,「(人からみて)愚かしげである,分別がない」という意味の方が正しいでしょう。

stay hungry,というメッセージは,シリコンバレーにある名門大学を卒業する若者に向けたメッセージとして素直に理解できます。しかし,stay foolishの方は,一体どういう意味で理解すればよいでしょうか。

彼は,大学を中退しました。そして,直後に熱中したのが「カリグラフィー(飾り文字=レタリング)」でした。彼は,同じスピーチの中で,世の中に全く役に立たない,少なくとも,何の利益も生みそうにないカリグラフィーに熱中した経験が,マッキントッシュ(美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータ)を作るときに大いに役立った,と述べています。

自分が今やっていることが,将来にどのように繋がっていくかということはわからなくとも,振り返ってみれば,点と点が繋がっていることがわかる。未来が見えない今は,とにかくどのような点とつながるかがわからなくても,それを信じてやるしかない,やるべきだ,というのがジョブズの言いたいことです。そのようなことは,他人から見れば,単に馬鹿げた(foolish)ことにしか見えないかもしれない。しかし,そこ(foolish)に留まれ,というのが,この名文句後半の正しい理解だと思います。

彼は,1955年生まれで,ビートルズやヒッピー文化,東洋思想の強い影響を受けて育った世代の一人です。したがって,先のメッセージは,厳格な伝統や既成の価値観に対する単なるアンチテーゼに過ぎないという見方もできるかもしれません。しかし,私は,既成の価値観にとらわれない柔軟な発想が求められている今こそ,彼のメッセージが重要な示唆を与えてくれると思うのです。

日本人の多くの若者が,安全志向,安定志向に回帰していると言われます。リスクが多く不確実性が高いなかでの行動選択では,最悪の事態でもある程度うまくやっていけるような戦略が合理的になってきます。しかし,全員がそのような選択をする世の中にはよいアイディアは生まれません。

「自分の親を超えられない時代」と言われるようになりました。これから先,ジョブズの生き方を真似て,自分の好きなことを信じ,己の心の赴くまま生きていく若者が出てきたとしたら,温かく見守ってあげたいものです。それくらいの度量がない社会には,よい未来は望めないでしょう。大人は,そのような人物をfoolishと見るでしょうが,そのような人物を教え諭すのではなく,知識を与え,チャンスを与える余裕を持ちたいものです。ジョブズを生み育てたアメリカの文化を,私は素直に羨ましいと思っています。


原田広幸